ブラインドテイスティングは、五感を育て、人間力を高める

科学的根拠に基づく「感じる力」と人生の豊かさの関係

「五感を磨く」という言葉は、感覚を大切にすることの象徴的な表現としてよく使われますが、近年の科学的研究により、これは決して比喩的な意味にとどまらないことが明らかになっています。

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった人間の感覚は、適切な訓練を施すことで確実に向上する「可塑性(かそせい)」を備えており、それによって思考や感情の働きが深まり、日常の充実度や、さらには人生の質そのものにも影響を及ぼす可能性があると考えられています。

そうした中で、「ワインテイスティング」は感覚の訓練としてはどうでしょうか?ワインは、香り・味わい・色合い・質感など、多様な感覚的要素を含む極めて複雑な飲み物であり、それを評価する際には、経験や知識、記憶や言語表現など、高度な認知機能までもが求められます。

今回は、4つの論文をもとに、以下のテーマについて考察していきます。

* ブラインドテイスティングによって、五感は本当に鍛えられるのか

* ソムリエなどのワイン専門家は、生まれつき感覚が優れているのか

* 感覚の向上は、科学的に実証されているのか

* 五感を高めることは、「人間力」や人生の質にどう関わってくるのか

ワインという題材を通じて、「感じる力」を育むことの意味と可能性について、科学的な視点から掘り下げていきたいと思います。


ワインテイスティングは「五感を総動員する体験」

ワインをテイスティングするという行為は、単なる好みの確認にとどまらず、極めて多層的な感覚体験です。

たとえば、視覚では色調や濃淡、透明度を観察し、注がれる音や泡のはじける様子を聴覚で感じ取ります。立ち上る香りは嗅覚で、口に含んだ際の味わいや舌ざわりは、味覚と触覚によって捉えられます。そして、それらの感覚を過去の記憶や経験と照らし合わせながら統合的に評価していくプロセスには、言語化や推論といった高次の認知機能も深く関わっています。

特に重要なのが「嗅覚」と「味覚」です。これらは“化学感覚(Chemical sense)”と呼ばれ、他の感覚に比べて訓練によって大きな向上が見込まれる領域です。加えて、嗅覚と味覚は、感情や記憶をつかさどる脳の領域(扁桃体や海馬)とも密接に結びついており、ワインテイスティングが単なる感覚的評価を超えた、情緒的にも豊かな体験であることを物語っています。


ワイン専門家の感覚は「天性」ではなく「鍛錬の賜物」

ソムリエなど、ワインの専門家は「もともと感覚が鋭い人」という印象を持たれることがありますが、近年の研究では、こうした感覚は後天的なトレーニングによって獲得できることが示されています。

たとえば、スペインで行われた「WINECAT」研究では、嗅覚に関する訓練を受けたワインテイスターが、訓練を受けていない一般の人々と比べて、「匂いの識別」や「香りの強さの評価」といった“認知的嗅覚能力”において有意に優れていたことが明らかになっています。一方で、「匂いを感じ取れるかどうか」という感覚的な鋭さに関しては、大きな差は見られませんでした。

これは、いわゆる“感覚(センス)”の違いではなく、訓練によって培われた「理解する力」や「判断する力」が重要であることを示しています。

また、イギリスの大学で行われた研究では、5週間にわたってブラインドテイスティングの訓練を受けた学生が、ワインとは無関係な香りに対しても識別力を高めたという結果が得られています。これは、テイスティングを通じて培われた感覚の鋭さが、他の分野にも応用可能であることを示唆しています。


ブラインドテイスティングは「感覚と脳を磨く実践」

では、なぜブラインドテイスティングによって感覚は鍛えられるのでしょうか?

その理由は、ラベルやブランド、価格などの視覚情報を遮断することで、先入観なしに純粋な五感、とりわけ香り・味わい・質感など、ワインそのものに集中する必要があるからです。このプロセスでは、注意力や記憶力、論理的思考、そして言語化能力といった高次の認知機能が同時に動員されます。

実際、複数の研究において、ブラインドテイスティングを繰り返すことによって、ワイン以外の食品や香り物質に対する識別力の向上をもたらすことが確認されています。

さらに興味深いこととして、感情の反応が専門性によって異なる点です。スイスで行われた研究では、初心者のグループは価格や評判などの情報に強く影響され、感情的に高揚しやすい傾向が見られました。一方、専門家は逆に、情報が与えられることで感情反応が抑制される傾向がありました。これは、専門家ほど「自分自身の感覚に向き合おうとする姿勢」が強くなることを示唆していると考えられます。


感覚の訓練は、共感力や表現力を育てる

「感覚が鋭い人は、人間としての感性も豊かである」―この考え方は、感覚科学や教育心理学の観点からも少しずつ裏づけられてきています。

たとえば、ワインの微妙な香りの違いに気づく力と、人の表情のわずかな変化を察知する力とは構造的には似た感覚が発現しています。また、香りを言葉で表現する訓練は、抽象的な感覚を他者と共有するためのコミュニケーション能力を高めるトレーニングにもなります。

さらに、嗅覚は記憶との結びつきが非常に強く、「ある香りを嗅いだとたんに過去の記憶がよみがえる」という“プルースト効果”に象徴されるように、感覚が心の深層に触れることがあります。

こうした「感覚と感情のつながり」を意識的に育てていくことは、自己理解や情緒の安定、他者への共感といった「人間力」の中核に関わる、非常に大切なプロセスであると言えるでしょう。


ワインを通じて「人生を彩る力」を取り戻す

私たちの暮らしは、目に見えるもの、耳に届く音、香る空気、触れる感触、そして味わうひと口―こうした五感の連続でできています。一つひとつの体験を丁寧に感じ取り、深く味わうことができれば、人生はより豊かで意味のあるものとなるはずです。

ブラインドテイスティングによって、香りや味の変化に集中しながら過ごす時間は、忙しない日常の中でこの瞬間に向き合う、静かで瞑想的な体験でもあります。

スマートフォンや大量の情報に囲まれる現代社会では、五感が鈍くなりやすいとも言われています。そんな時代だからこそ、自分の感覚に立ち返る時間を持つことは、人生の質を見直す貴重なきっかけになるのではないでしょうか。


感覚を磨くことは、生きる力を育てること

ワインを通じて得られるものは、単なる知識や趣味の広がりにとどまりません。五感という入口から、自分の内側にある「感じる力」「考える力」「伝える力」、そして「生きる力」そのものを育むことにつながっていくのです。

これからは、AIやデジタル技術では代替できない「人間らしさ」がますます重要になっていくことでしょう。その中で、自分の感覚に目を向け、意識的に育てていくことは、人生をより豊かに、そして深く味わうための大切な一歩となるはずです。

ブラインドテイスティングを通して、ワインを味わう時間が、単なる嗜好を超えて、自分自身と向き合うひとときとなることを願っています。


1.Coppin, G., Audrin, C., Monseau, C., & Deneulin, P. (2021). Is knowledge emotion? The subjective emotional responses to wines depend on level of self-reported expertise and sensitivity to key information about the wine. Swiss Center for Affective Sciences, University of Geneva, Changins – HES-SO University of Applied Sciences and Arts Western Switzerland. Food Quality and Preference, 92, 104229.
2.Spence, C. (2024). Cognitive influence on the evaluation of wine: The impact and assessment of price. Food Research International, 187, 114411. https://doi.org/10.1016/j.foodres.2024.114411
3.Mariño-Sanchez, F. S., Alobid, I., Cantellas, S., Alberca, C., Guilemany, J. M., Canals, J. M., De Haro, J., & Mullol, J. (2010). Smell training increases cognitive smell skills of wine tasters compared to the general healthy population. The WINECAT Study. Rhinology, 48(3), 273–276. https://doi.org/10.4193/Rhino09.206
4.Wang, Q. J., Fernandes, H. M., & Fjaeldstad, A. W. (2021). Is perceptual learning generalisable in the chemical senses? A longitudinal pilot study based on a naturalistic blind wine tasting training scenario. Chemosensory Perception, 14, 64–74. https://doi.org/10.1007/s12078-020-09287-3

オックスフォード大学でのブラインドテイスティング試験の一コマ。

ワイン・ブログ 情熱とサイエンスのあいだ

ワインに関する科学的研究を、私の超個人的なフィルターを通して、ソムリエのみならずワインラヴァーの皆様にお伝えするそんなブログです。ワインに関しての最新研究やワインサイエンスを通してマニアックなワインの世界を突き詰めたい方々にお役立ていただけると嬉しいです。

0コメント

  • 1000 / 1000